今回は、オーストリアを代表する画家 Gustav Klimt(グスタフ・クリムト)をご紹介します。
グスタフ・クリムトの生涯
1862年
ウィーン郊外のバウムガルテンで生まれる。
1876年(14歳)
博物館付属工芸学校に入学。
石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を受けた。
1880年代初頭(17歳頃)
弟のエルンストと同級生のフランツ・マッチュとともに芸術家商会「キュンストラーカンパニー」を設立。
皇帝と皇妃の銀婚式を祝う行列装飾をはじめ、数多くの壁画や天井画の制作を行う。
聖書や神話伝説から得た題材を伝統的な技法で描き出した装飾画は、好評を博した。
1888年(26歳)
皇帝より黄金功労十字章を受章。
1891年(29歳)
ウィーン美術界の中心的な存在だった「クンストラーハウス(ウィーン美術家協会)」に加入。
1892年(30歳)
7月に父が、そして12月に弟のエルンストが亡くなる。
同志でもあった弟の死により、芸術家商会「キュンストラーカンパニー」は解散。
早すぎる死を目の当たりにし、絶望した。
1894年(32歳)
文部省よりウィーン大学大講堂天井画の制作依頼を受ける。
『法学』『医学』『哲学』の3部構成だったが、露骨な性的表現に満ちたものだったため、その是非をめぐり大論争へと発展。
最終的にクリムトは契約を破棄し、報酬を全額返還した。
1897年(35歳)
保守的な「クンストラーハウス(ウィーン美術家協会)」を脱退。
新しい造形表現を主張する芸術家集団「ウィーン分離派」が結成され、初代会長に任命される。
1903年(41歳)
イタリアのラヴェンナを旅行し、モザイク画に感銘を受ける。
金箔を多用した装飾豊かな「黄金様式」を確立。
1905年(43歳)
意見の不一致と国からの助成金停止などを理由に「ウィーン分離派」を脱退。
1906年(44歳)
「オーストリア芸術家連盟」を結成。
1910年代(48歳〜)
「黄金様式」から脱却し、色彩豊かな表現方法に。
風景画や肖像画などの作品を、部屋を彩る装飾品として描いた。
1918年(56歳)
脳梗塞と肺炎(スペイン風邪の症状悪化により発病)により、死去。
作品の魅力
独特な画
クリムトの作品には、写実的な要素と平面的な要素が混在します。
「風景画」「肖像画」「抽象画」などと一言で表せない独特な画が、クリムトの魅力。
クリムトの描く紋様や金箔の使用は、日本の美術から影響を受けたとされています。
それが、桃山時代の後期に興り、近代まで活躍した「琳派」です。
「琳派」の特徴は、平面的なデザイン。
金箔や銀箔を貼った背景に、モチーフを大胆かつ効果的に配置することで目立たせ、余白による高級感も生み出しました。
クリムトの豪華絢爛ながら平面的な装飾は、妖艶な女性像を引き立てる役割を果たしています。
神秘性のある女性
クリムトの作品でモデルを務めたのは、パトロンである裕福な女性や、クリムトの家に寝泊りする女性たち。
クリムトは生涯独身でしたが、かなりのプレイボーイとして知られています。
多くのモデルと愛人関係にあり、子どももたくさんいました。
そんなクリムトが生涯にわたって愛したのが、デザイナーであり実業家のエミーリエ・フレーゲ。
彼女は、一説に『接吻』のモデルとも言われています。
クリムトに描かれた女性たちは、「聖女」であり「妖女」であるという二重性を持ち、美しくも物悲しさ漂う神秘性が魅力です。
性と死の表現
クリムトの作品は、「官能的なエロス」や「愛」が一貫したテーマ。
生々しいモチーフを通じて「性」や「死」を想起させる、妖しさがあります。
その背景には、世紀末という時代の不安感、ウィーンという古都の閉塞感がありました。
保守的なウィーンで伝統に立ち向かい、非難を浴びながらも、自らの表現を追求し続けたクリムト。
その原動力は、彼の波乱万丈な人生にあるのかもしれません。
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2019年に東京都美術館で開催された「クリムト展 ウィーンと日本 1900」に行ったときのブログ記事です。
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